2022年四旬節のための講話
苦境にあっての信仰表明の形
―400年前のキリシタン信徒から学ぶ―

講師:川村 信三神父様(イエズス会)

はじめに

 私は上智大学で歴史学を教えているのですが、その関係でいろいろなところとプロジェクトを行い、今もその最中です。今日はそのなかで、400年前の殉教者とその周辺にいた人々の話を皆さんと分かち合いたいと思います。
 「教皇たちと日本」という大きなテーマをここに掲げていますが、皆さんはバチカンに行かれたことはありますか? バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の横に、バチカン図書館と文書館、博物館があるのをご存じですか? そこは公開されていなくてなかなか入ることができないのですが、日本の角川文化振興財団と朝日新聞社が提携をして、バチカンの中にあるさまざまな日本関係の史料についてもう一度みんなに知らせたい、なんとかバチカンにアクセスしてバチカンの門を開けたい、というプロジェクトを始めました。私たち研究者が十数名集められ、「機会をつくるから、とにかくバチカンの扉を開いてくれ」と言われ、開きました。
そのリーダーを務めさせていただいていますが、2019年にこの企画が始まり、国際的に重要なバチカンというところを皆さんに紹介しようとしてきました。その直後に教皇が来日され、盛り上がって、これはうまくいくかと思っていたら、コロナです。それで身動きがとれなくなったのですが、この3年間進めてきたことの成果を皆さんと分かち合いたいと思います。この企画は、一般向けにはバチカンと日本の国際交流という趣旨のものになっていますが、カトリックの信徒向けには別の意味があります。400年前の日本のキリスト教徒たちと教皇がどれほど結びついていたかという話なのです。それについてお話ししたいと思います。

1621年の日本の信徒の奉答書

 1621年、去年がそれから400年だったのですが、日本の信徒が教皇に手紙を送っています。
5通あり、それぞれいろいろな地域の代表者たちが作ったものをバチカンに届けたのですが、それが残っているのです。教皇と日本の信徒たちはこれくらい結びつきが強かったということを、日本のカトリック信者の皆さんにはお伝えしたいと思っています。
 日本のキリシタン信徒たちは、ローマ教皇に5通の手紙を送っていました。

①1620年10月18日(元和6年 9月23日) 有馬
②1621年 1月 1日(元和6年12月 9日) 中国・四国
③1621年 1月 2日(元和6年12月10日) 京都、伏見、大坂、堺
④1621年 3月26日(元和7年 2月 4日) 長崎
⑤1621年 9月29日(元和7年 8月14日) 奥羽

 いちばん古いものは1620年、九州の有馬の信徒団がこれを作りました。2番目には中国・四国地方の人たちが作りました。3番目は大坂、京都の人たち。4番目が長崎の人たち。5番目は奥羽、東北の人たちです。
こういう手紙を、ひとつの雛型をもとに5箇所で別々の団体が作ったものをひとつにまとめてバチカンに送ったということなのです。これらは奉答書といいますが、君主、国家元首に対して一般民が送る手紙のことです。これらの奉答書を、誰がどうやって作ったのか、どういう背景の人が作ったのか、どのような状況で作ったのかということを考えたいと思います。
 バチカンにこのような日本関係のものがあるということは、割合古くから知られていました。実は100年前から研究があったのです。村上直次郎(1868-1966)という有名な研究者が当時の文部省から派遣されて行ったときにこういうものがあるのを見せられて、こんなものを17世紀初めの日本の信徒が教皇に送っていたということを知ってびっくりしたわけです。それで50~60年くらい前にいろいろな研究があり、その存在は知られていました。こういう手紙が送られたことも知られていたし、東京大学の史料編纂所の資料集にも写真が載っていました。ただ全部白黒ですし、実物の背景はわかりにくかったのですが知られてはいました。それを私たちは100年後にもう一度図書館に出向いて見せてもらったわけです。

どんなことが書いてあったのか

 これは、教皇が日本の信徒たちにくれた手紙に対する返礼です。
 「ありがとうございます。あなたが心にかけてくださったことを私たちは非常にうれしく思っています。その手紙を私たちは喜んでみんなで朗読しています。集会があるごとに一緒になって読んでいます」と、迫害にあって苦しい状況にあるなかで手紙をくださったことへのお礼という形で書いているわけです。
 そういう手紙がどのようにしてできたのか。
(1)成立の背景
(2)アーティファクト(工芸品)としての価値
(3)都の奉答書を作った人たち
 これらを通して400年前の信徒たちの意気込みを知っていただき、皆さんの現在の信仰生活の糧にしていただけたらと思います。

成立の背景

 まず、奉答書がいかに成立したかという話ですが、その背景を説明します。
日本のキリシタン史というのはだいたいこんな感じになります。
信徒数
1549年フランシスコ・ザビエル来日1000
1570年フランシスコ・カブラル来日約4万
1579年アレッサンドロ・ヴァリニャーノ来日約15万
1585年天正遣欧使節教皇謁見(教皇グレゴリウス13世)
1587年秀吉の伴天連追放令約20万
1613年慶長遣欧使節教皇謁見(教皇パウロ5世)
1613年徳川家康による禁教令20万~40万
 1549年にフランシスコ・ザビエルが来日します。そして1613年に徳川家康が駿府、今の静岡で禁教令を出し、その後1614年に全国に禁教令が出回ります。ザビエルのときには1000人くらいの信徒数でした。ところが、禁教令が出たころには、40万人くらいの信徒がいたといわれています。そのときの信徒数ですから、延べにしたら何百万、あるいは1000万人近くいたのかもしれませんが、そんな短い時間で日本の信徒が増えたということです。
 この絵はグレゴリウス13世ですが、この方は日本贔屓の方で、天正遣欧使節として4人の少年がローマに行って謁見したとき(1585年3月23日)の教皇です。実はそのとき4人のうち3人にしか会っていないのです。数日前からひとりは病気になり、宿舎で寝ていました。中浦ジュリアンです。それをかわいそうに思ったグレゴリウス13世は、事前に中浦ジュリアンのところに来て「せっかく来たのに謁見の場に出られず残念ですね」と挨拶してくれたのです。しかし、そのときに病気をうつされたのか、ほどなくして(4月10日)グレゴリウス13世は肺炎で亡くなりました。とにかく日本のことが大好きな教皇で、没後に出版された教皇事跡書の肖像画の周囲には事跡を表す絵が描かれますが、そのうちの4つは、日本の神学校の絵、1つは天正少年使節の謁見の絵です。ですから、彼の在位中に、日本の少年たちと出会ったこと、日本と関わりを持ったことが、どれくらい大きなことであったかということがわかります。

 その後は、慶長遣欧使節がありますが、これは支倉常長ですね。支倉さんたちも行っているのですが、こちら(天正遣欧使節)はイエズス会、こちら(慶長遣欧使節)はフランシスコ会です。ご存じのようにイエズス会とフランシスコ会は仲が悪い。イエズス会はヴァリニャーノ、フランシスコ会はソテロが関わっていたのですが、(フランシスコ会は)どうもイエズス会の真似をしたらしいのです。ソテロはことあるごとに真似をしようとして、いろいろな困難にでくわしてきました。後にソテロさんは福者(日本205福者のひとり)になりました。
とにかくこの短い間で教皇庁の日本との関わりはかなり強いものになっていたのです。ですから教皇のほうにも日本に関するデータがたくさん残っているのです。そのデータのひとつが今からお見せする奉答書です。

 奉答書の成立背景にはもうひとつ大きなことがあります。
 1620年代、19年から始まりますが、日本では大殉教時代です。各地で50~60人の規模で見せしめの大殉教があるのです。最初は京都で1619年、六条河原でありました。その橋本テクラさんをはじめ52名、列福された方々(日本188福者殉教者)がおられます。
次に長崎の殉教があり今年で400年になります。ですからもう一度殉教のことを考える良い機会だと思います。下の図が長崎の西坂の殉教図で非常に克明に描いてあります。
来年(400年に当たるのが)1623年の江戸の大殉教です。品川の札ノ辻というところで50本も十字架を立てました。だいたいみんな町の入口の街道沿いに刑場があります。イエスの十字架刑のゴルゴタの丘もそうです。
 そのように殉教が次々に行われたときのことです。
禁教令が出されたときに、幕府は何をしたかというと、この禁教となったキリスト教がいかにまずいものであるかということを宣伝したのです。だから皆の目につくところでこのようなデモンストレーションをするのです。
このあと、どんどん殉教者が出てきます。一説によれば2万人、4万人ともいわれますが、今度は、幕府は方針を転換します。どうしたかというと、すぐに殺してしまったら皆が「殉教者」「殉教者」と称えるから殺さない。責めるのです。穴吊りのような拷問をして、特に宣教師たちが「転ぶ」ように、「キリスト教をやめます」と言わせるための拷問をしたのです。
 この絵をよく見ると、真ん中に宣教師とわかるような衣装で描かれています。その周りに火が燃えているのですが、足元には燃えていないのです。2m先くらいで燃えています。どういうことかと言うと、炙られているのです。そこで苦しくなって棄教するかということです。周りでは信徒たちが首を刎ねられています。だいたいは宣教師たちを匿った人たちです。
そんな時期、キリシタンと言われいつ殉教者になるかわからないような切迫した状況のなかで、さきほど紹介した奉答書が書かれたのです。

 実は、グレゴリウス13世以降、歴代の教皇が日本に手紙を送っておられます。
教皇在位期間日本宛書簡
グレゴリウス13世1572-15854通
シクストゥス5世1585-15908通
クレメンス8世 1592-16052通
パウルス5世1605-16216通
ウルバヌス8世1623-16446通
 バチカンには内容目録が全部残っています。本物は日本に送っているのでなくなるのですが、その中身がどういうものかということは全部記録されています。この中で、都の信徒の奉答書は、通算18番目の、1619年12月8日のパウルス5世の手紙に対する返事だったのではないかという推測が成り立ちます。1619年12月8日の手紙で、パウルス5世は「日本の人たちが迫害されていることを知っています。それに対して私たちは祈っています」という内容のものを書いてこられているからです。パウルス5世は、サン・ピエトロ大聖堂の完成を強く推進した教皇でした。その関連で1617年に大聖堂の完成を祝って全免償公布の宣言をします。その際、日本宛てにはもう1通、「がんばっていますか。あなたたちの迫害のことはよく知っています」という旨の手紙が添えられていました。それがローマから日本に運ばれたのが、1620年、3年後だったのです。
 その手紙を皆が見て、「すばらしい、教皇がこんなに私たちのことを思ってくださっている」ということで、その当時のイエズス会の責任者、マテウス・デ・コウロスが、「それでは全国の5か所の信徒団に手紙を書きましょう。(奉答書の)雛型を作るので皆同じように作ってください」と言い、それにこたえて各地で作られたのが、あの5つの奉答書だったのです。ローマに行く宣教師が、横1メートルくらい、縦40センチくらいの奉答書を折りたたんで、5通懐に入れて持っていきました。
 教皇パウルス5世への返事として持っていったのですが、ローマに着いたときにはすでに代替わりしてウルバヌス8世になっていました。ウルバヌス8世もまた日本での迫害のことをとても気にしていましたので、それを喜んで受け取りました。ウルバヌス8世はバルベリーニ家というローマの名門貴族の出身で、奉答書をバルベリーニ家の図書館に収め、それがそのままバチカン図書館に移されたのです。
 そういう経緯がありました。

奉答書とはどんなものなのか

 さきほどお話ししたように、奉答書のことは100年前から知られ、写真もあり内容も分かっていて史料としては新しいものではありません。しかしながら、いま私は東京大学の人たちとグループを作って、紙質調査というものをしています。それは、いろいろな歴史的な文書の紙を調べて、どんな紙が使われてどんな保存の仕方がされているのかなどを調査するのですが、ちょうどバチカン図書館とのつながりができたので見せてもらうことになり、このグループでバチカンに行ったのです。コロナが始まる1か月前でした。「また来ますね」と言って以来、行けておりません……。
 そのときに奉答書を顕微鏡で見るなど、いろいろと調査をしました。この東大のグループが日本で最先端の機器を持っているのですが、バチカンにこれを持っていったら、バチカンの人がびっくりして「ここまで進んでいるのか」と言って見せてくれたのです。LEDの光の強さがそれまでのものとは全然違っているというもので、それで顕微鏡写真を撮り、調査報告を作りました。ですから、同じ史料でも、技術が発達していますから違う結論が出てきます。
 さて、どんなものだったのでしょうか。
皆さん和紙をご存じですか。和紙は大きく分けて、楮(こうぞ)紙(楮という木の繊維から作るもの)、雁皮(がんぴ 最高級品)、三椏(みつまた)紙(強い紙)の3つがあり、3つとも高級です。日本でも将軍家や天皇の綸旨などで使われるのはすべてこれです。
 その繊維の様子は顕微鏡でわかります。紙を梳くときの跡が残る。その跡を見ると、どこでできたかがわかります。あとで、これを乾かすときに、中国だったら土壁にぽんと貼り付けて乾かすのですが、日本では必ず板に貼り付ける。だから板目が出るのです。そのようなことを分析してみると、堺・大坂・伏見・都の信徒の奉答書はちょっと出来が違うのです。雁皮紙の上に青い塗料を塗り込んで、その上に金泥を塗り、いろいろと模様を描いています。その周りに金箔が貼られているのです。立派な工芸品です。そんなものを1621年の信徒たちが作っているのです。
 その2年前には都の大殉教があったのに、です。こういうものを作っているひまはない。でも作っているのです。波が描いてあったり、松竹梅が描いてあったり、金箔がうまく貼られている。金泥といって、金で塗った上に墨で書くのは大変なのですよ。定着させるのに。それが400年たってもびくともしない。そんな代物が残っているというのは驚きです。そこで、私などは違う想像をしていくのです。
 これは、都の職人たちが一番丹精をこめてつくった感謝の心を表したものではないかと。

都の奉答書を生み出した共同体

 では、これを生み出した人だれなのでしょうか。信徒だったというだけではものたりないのです。
 都の奉答書に署名がある人たちの名前を見ていきます。
杉山貞信登明
松浦了有如庵守
中井忠右衛門尉安盛待安
野口次良左衛門上伏見
平田中夢類子
山本常休上珍
木屋道味平登路
柳屋治兵衛理庵
岡宗知場留登路命
關東屋次郎右衛門伴宇路
奈良屋孫右衛門志門
讃岐屋安右衛門如庵
 各奉答書には、12人の署名があります。屋号をもっている人たちは堺、大坂の商人ですね。
 この人たちはだれなのだろう、と調べてみると、他の史料にも出てくる名前があるのですよ。ほかの史料とはなんですかというと、この3年ほど前に、マテウス・デ・コウロスという人の徴収文書というものがあります。この奉答書を作らせた張本人です。3年前の1617年、全国の信徒に向けてお願いをしているのです。何のお願いかというと、1614年の禁教令が出たあと、イエズス会が信徒を捨てて皆逃げ去ったといううわさをフランシスコ会が撒いたのです。それに対して、このイエズス会のコウロス宣教長は、そんなことはない、イエズス会の宣教師が一緒にいる、ということを証言してくださいと、各地の信徒に頼んだのです。すると、全国で約75箇所、全部で700筆ぐらいの署名が集まってきたのです。そのうち堺、大坂、都からの文書の中に、この奉答書に出てくる人物と重なる名前があったのです。
 大坂、堺、伏見、都から送られた文書に出ている名前を、さきほどの奉答書の署名と比べてみると、次の人々の名前が重なっていました。
大坂奈良屋孫右衛門 Simon
關東屋次郎右衛門 Paulus
岡宗知 Bartholomeus
柳屋次兵衛 Leo
中井忠右衛門 Matias
杉山貞信 Thomas
 この中で 杉山貞信登明という人が浮き上がってきます。「登明」とはトマスのことです。
 マテウス・デ・コウロス徴収文書の一つに、杉山貞信の署名と印鑑のあるものがあります。そこに肩書が書いてあります。「都 見せりこ流しや」と書いてあり、そこに「本路へとる」とある。本路ヘトルはポルトガル語です。PROVEDOR これはミゼリコルヂヤの「頭(かしら)」のことです。つまり組長なのですね。判子も、個人の判子ではなく、ミゼリコルヂヤの判子を使っているのです。そして、杉山貞信の名前のあとに、ずらずらと名前が出てくるのですが、これは、ミゼリコルヂヤのメンバーだった人たちの名前です。すなわち、この奉答書を作った人たちはほとんどがミゼリコルヂヤだったということです。
 長崎の奉答書でも同様のことがあって、3番目に名前が書いてある後藤そうりんも、長崎のミゼリコルヂヤの頭だったのです。どういうことでしょうか?
 1620年頃 禁教令が始まって7、8年たっていました。都ではまだ活動していて、自ら信徒団だと名乗っているのは、実はミゼリコルヂヤの団体なのです。ポルトガル語の史料がありますが、そこには、ミゼリコルヂヤということばは出てきていない。日本語では、ミゼリコルヂヤと書いてあっても、翻訳では消されている。日本では、ミゼリコルヂヤが認知され、よく知られていたのです。

ミゼリコルヂヤとは何か

 実は、私は、信徒組織を専門にしているのですが、信徒組織とは13世紀のヨーロッパ起源の信徒信心会組織です。ラテン語では、コンフラテルニタス(CONFRATERNITAS)、ポルトガル語ではコンフラリア(CONFRARIA)といいます。イタリアを発祥として、教会の中で信徒たちが、サークル活動、クラブ゙活動みたいな集まりをもつ、これが信徒集団、兄弟会といわれるものです。イタリアからポルトガルなどに広まっていきました。皆さんは、教会に毎週日曜日に来ますね。それでもの足りますか。もうちょっと教会のために自分の力を使いたいと思う人たちがいることでしょう。実際、そういう気運が13世紀に非常に高まったのです。そして、信徒信心集団というのができていったのです。
 初めはどのようなものとしてできたかご存じですか。鞭打ち集団だったのです。
一つの絵がありますが、白い装束を着て、覆面をしています。上着のほうには背中に穴が開いています。何をしたのでしょう。苦行です。皆さん、苦行をやっていますか。四旬節にぜひやってください。イエスが鞭打たれたことをまねて自分に鞭打ちをするという苦行です。それがはやって、ディシプリナーリという鞭打ち集団ができました。金曜日にみんなで一緒に鞭打ちをしましょう、と言ってしていたのです。
 しかし、だんだんと、そういう団体が鞭打ちをやめて、もっと別なものをやりましょうということになっていきました。そうした信徒信心会(兄弟会)はだいたい50人から100人のもので、特徴は信徒だけのものだったということです。司祭は、スーパーバイザー(顧問)として監督のようなものになりますが、活動は信徒の自主性に任せるというものだったのです。
 信徒信心会にはさまざまな類型があります。イタリアを例にすると、
 *鞭打ち集団型
 *慈善事業型
 *信心業実践型
 *賛歌合唱集団
といったいろいろなものができていきました。このうち2番目の慈善事業型では、7つの慈悲の業が目指されていました。これは何かというと、マタイ25章31-46節の「最後の審判」に関する教えがもとになっています。
 そこで、天の国を受け継ぐことが約束されている人はどういう人だったでしょうか。
 イエスが、あなたはわたしの兄弟であるこの人にしてくれたことは、イエス自身にしてくれたことだと教えくれた人とは、どのような人だったでしょうか。
 ①渇いた人に水を与えていました。
 ②飢えた人に食べ物を与えていました。
 ③裸の人に着せていました。
 ④病者を訪問していました。慰めに行きました。
 ⑤監獄にいる人を慰めに行きました。
 ⑥巡礼者の世話をしました。
 ⑦(これはマタイにはなくトビト記1・17にあるのですが)死者を埋葬しました。
 この7つの目標が「慈悲の業」といわれるのですが、この7つのことを実践する慈善事業型の信徒団体が、ミゼリコルヂヤなのです。これが全ヨーロッパに広がるのですが、とくにポルトガルで非常に発達しました。
 それを、宣教師が日本にもってきたのです。

日本のミゼリコルヂヤ(慈悲の組)

 日本で、一番早く「慈悲の組」ができたのは豊後の府内(大分)でした。そこでは、病院ができました。病院といっても、外科・内科の治療だけでなく、その当時は重い皮膚病も大きなものでしたが、それだけではなく、貧しい人の世話をするため、病者を訪問するため、葬儀と死者の埋葬をするために作られたのです。まさしく「慈悲の組」の活動を行う家でした。これを創設したのは、ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583)という人です。この人がポルトガルのミゼリコルヂヤの規則をもってきたのです。日本にはまだ教会というものができていない。教区、小教区というものがないときに、この慈悲の組によって、信徒の共同体ができて、教会の核になっていったのです。
 ルイス・デ・アルメイダは、リスボンに生まれ、ユダヤ教からカトリックに改宗した人(コンベルソ)でした。外科医師免許を取得し、ゴアからマカオに渡り、1552年、貿易のために来日しています。しかし、豊後にとどまります。日本の人たちは、なんで、赤子をすぐに殺すのだろう、なんですぐ堕胎するのだろうと、心を痛めたのです。彼は豊後の大名大友宗麟のところに行って、牛を飼っているところに、乳母さんたちをたくさん集めて、乳児院を作りたいと言ったのです。そこで、身寄りのない人の世話をすることと死者を埋葬するという、まさにミゼリコルヂヤをやりたいと言ったのです。
 大友宗麟はなんと言ったと思いますか。これは大友宗麟、偉かったですね。喜んで、「やってください」と言います。自分の館から100mほどの、2つくらい路地を行ったところに宣教師を住まわせて、病院を建てさせました。そういう病院は市内には絶対に作っていなかった、郊外に作るのがつねでした。それを市中で作りなさいと言ったのは、大友宗麟です。そこで、慈悲の組ができ、発展していったのです。

 さきほどのコウロス徴収文書に戻りますが、都からは75名、堺34名などの名前があります。都からの文書で杉山貞信に続いて出てくる人々の名前を見てみると、どのような職業かがわかる。塗師、白銀(しろがね)屋、蒔絵師などがいます。このような人々は財政的余裕があります。また技術的なものは確かです。そのような人たちが、迫害があっても、その集団は消え失せずに存続していたということなのです。ミゼリコルヂヤの組です、と宣言しているところがすごいです。
 都では1560年から、ザビエルが来てから10年ぐらいで、都の裕福な信徒たちはミゼリコルヂヤをやっている。ハンセン病の人たち、重い皮膚病の人たち、孤児たちを自分たちの余力をもって世話をしていった。都の信者たちはそういう人たちだった。そこから武士とか有力者たちが加わっていきます。堺では小西行長の家族が、こうした病院を引き受けています。

 1587年 伴天連追放令。このとき秀吉が宣教者たちを追放します。すると、ミゼリコルヂ
ヤの組は、逆に強くなっていきます。司祭たちは、追放されます。でも、ミゼリコルヂヤは信徒の団体です。神父たちが追放されても、別に困らない。ますます活動を展開していく。堺でも4箇所に病院を建てる。そのために全国から貧者が集まってきた。
 奉答書が書かれる直前には、京都で大殉教(1619年)がありました。京都、大坂では活動ができなくなったのですが、堺ではできた。ますますやっていけるようになった。長崎も同じことがいえるということを先程申し上げましたが、長崎は、病院と教会とミゼリコルヂヤの三本立てなんですね。教会を作って、病院を作って、信徒団が世話をする。迫害が起こると、教会(聖堂)はすぐつぶされる。でも、病院は、町の人も「あの人たちはいいことをしているね」ということをうすうす知っている。なので、病院を壊すのにはすごく時間がかかる。やがて、病院が壊されたあと何が残るかというと、信者の集団が残るのです。
 皆さんは、こういう話を聞いて、どう思われるでしょうか?
教会というのは、司教がいて、司祭がいて 信者の集団があって、建物があって教会。しかし、400年前にはそれができなくなった。できなくなったときどうしたか。コンフラリア(信徒信心会)が信者の結束を固めたのです。もしも見つかったら、処刑されるような状況にあったのに、あのような奉答書を作ったのはそういう人たちです。信徒の力というものは、すごいものがあります。その気になったら、とてつもない力を発揮します。

信仰をつないだコンフラリア

 1865年の信徒の発見の背景にはコンフラリア、信徒の集団があったのです。潜伏キリシタンの間の伝承で、バスチアンという17世紀の人は「7代待ちましょう。信仰が自由になるときがきます」と予言しました。そして、そのときに「神父を待ちましょう」と言ったのではなく、「ゆるしの秘跡を聴ける人、コンヘソーロを待ちなさい」といったのです。キリシタンは、ローマとの接触がなかったのに、カトリック教会の秘跡、ゆるしの秘跡というものを伝承していたので、250年後に、あの長崎での信徒の発見という出来事があったのです。キリシタン時代としての信仰伝承の歴史全体がストーリーとしてまとまっているのです。
 皆さん、どう思われるでしょうか。
 教会に来るだけでも大事なことですが、教会の中で信徒たちが自発的に自分たちで団体を作り始めるということがあったのだという歴史です。それが逆境にあったとき力を発揮したのです。このような信徒たちのことを考えないかぎり、キリシタン時代というのはわからないのです。私は歴史学者、研究者ですから 史料に基づいて言うというのが原則なのですが、あのような信徒たちの存在と活動は、やはり聖霊の働きだと言いたいですね。これを言ったら、歴史学者としては終わりですけれども(笑)。そこにはやはり予期しない導きがあったのですね。
 それから400年を経過した現代、とても危機的な状況であると思います。しかし、きっとその中から新しい知恵が出てくると思います。そのことのために、400年前の信徒の姿は、何かヒントになるのではないかと思います。よくキリシタン史というと宣教師の話が多いですが、それもありますが、それ以外のところに目を向けてほしいなと思っています。
 1時間のお話ということで、ここで終わりにしますが、今日お話ししたことは、去年11月13日、上智大学での大きなシンポジウムで紹介したものです(『カトリック新聞』2021年12月12日号参照)。今度の4月には、長崎でもシンポジウムを予定しています。
                          (2022年2月27日 カトリック関町教会聖堂)