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今日の福音 - 稲川神父の説教メモ -

主の昇天 マルコ16:15~20  2018年5月13日

 復活節もいよいよ昇天・聖霊降臨という節目を迎えます。イエス様はご復活の後、40日間にわたり、様々な時、場所、人々にご自分を現し、ご自分が死に打ち勝ったことをお示しになりました。ルカ的な救いの歴史によれば、復活・昇天・聖霊降臨はこのような流れの中で説明されていますが、他の福音書においては、この3つの出来事は同じ救いの出来事の様々な側面として語られることも多いのです。

 マルコ福音書においても、主の昇天と聖霊降臨(全世界への弟子たちの派遣)は同時のこととして語られています。宣教という用語は、今日では一般的なことばとしてよく知られていますが、実はこのことばはマルコが使い始めたものなのです。マルコにおけるイエス様の派遣のことばは7つの要素になっています。①全世界に行って ②洗礼 ③悪霊を追い出す ④新しいことばで語る ⑤蛇をつかむ ⑥毒を飲んでも害を受けず ⑦病人に手を置く これらのことばはイエス様自身の宣教の活動を示すことばでもあり、弟子たちがイエス様と同じように宣教することを表しています。また、宣教は弟子たちの力によるものではなく、復活して全世界の信じる人々の中におられるイエス様との協力・共同の行いであることをマルコは語っています。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と(マルコ16:30)。

 宣教とはわたしたち人間が人間の知恵で語ることではありません。イエス様は復活して全世界の人々の心の中に語りかけておられるのです。主の昇天ということは、イエス様が天の遠いところに行ってしまったことを意味するのではありません。ヘブライ語の「ハッシャマイーム・天」は、わたしたちがこの地上のどこにいてもいつもわたしたちの頭上に天があるように、いつもわたしたちとともにいることを表すことばなのです。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるあの主の祈りも同じことを意味しています。弟子たちはイエス様と一緒にいるとき、自分の言葉でイエス様を語ることはありませんでした。それは目の前にイエス様がいるからと思っていたからでしょう。イエス様がある意味で見えない、けれど彼らの心の中にイエス様を感じているからこそ、それを語りだしたのです。今のわたしたちも弟子たちのように語るよう招かれています。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちの視線は地上の高さではなく、父なる神のおられる天、イエス様の視線でなければならないのでは?

復活節第6主日 ヨハネ15:9~17  2018年5月6日

 先週のぶどうの木のたとえに続く箇所において、イエス様は「愛の掟」について語ります。この「愛の掟」についてヨハネは三度語りますが、その最初の13章34節においてはこの掟を「新しい掟」として語ります。すなわち新約におけるすべての掟の根本精神を表すものとして語られています。すべての掟、行いはこの掟において始まり、集約されているのです。

 そして2度目は今日の箇所、15章12節に「わたしの掟」という名でこのことが語られます。イエス様がわたしの掟と言われるのは、その直前にこれが「父の掟」でもあることを語っているからです。まことに「御父と御子」は一つなのです。さらに15章17節において「わたしの命令」すなわちイエス様の絶対的な意志であることが宣言されています。

 この箇所において、イエス様は弟子たちを「友」と呼んでいます。これは特筆すべきことで、旧約聖書において「神の友」と呼ばれたのはアブラハムだけです。さらにこの「友」を示す用語は「愛する者」を意味するのです。ヨハネ11章3節で、あのラザロが病気になったとき、マルタとマリアはイエス様に人を遣わして「あなたの愛する者が病気です」と知らせており、それに応えてイエス様も11節において「わたしたちの友ラザロが眠ってしまった。わたしは彼を起こしにゆく」と語っておりますが、この「愛する者」と「友」という用語は同じなのです。

 すなわち、イエス様は弟子たちを、そしてわたしたちを、はっきりと「愛する者」であると宣言なさったのです。その「愛する者」のために命を捧げること以上の大きな愛はないと語られたのです。この新しい掟、イエス様の掟である愛の掟に生きようとするとき、イエス様との生き生きとした関係の中にいなければこの愛の掟を実践することはできません。今、この瞬間にイエス様ならばこうするであろうということを考え、知り、確信しなければ、それを実行できません。イエス様の愛し方について学び続ける弟子である姿勢、生き方を続けていなければ、すぐに自分の有利・不利、都合・不都合を優先してしまいます。

 この掟はイエス様とわたしたちをつなぐ掟です。この掟を重荷に感じたり、この掟からまぬがれることを望んでいては、わたしたちとイエス様の間には何のかかわりもなくなってしまうのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*イエス様のように愛するためには、わたしたちがどのように変わらなければならないと思いますか? またそれはどうすればできるのでしょうか?

復活節第5主日 ヨハネ15:1~8  2018年4月29日

 今日の福音は、最後の晩餐でイエス様がお話しになった「ぶどうの木」のたとえです。ヨハネは、13章から17章までとなんと5つの章もかけて最後の晩餐の中でイエス様が語られたことを記していますが、その中でも15章は中心となる部分です。それはイエス様がご自分を「まことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語られ、そのたとえを通して新しい掟、愛の掟、イエス様の掟(わたしの掟)が示されるからなのです(ヨハネ15:12)。

 先週の牧者と羊のたとえによってもイエス様とわたしたちの絆の深さが語られていましたが、ぶどうの木のたとえによってさらに、イエス様とわたしたちは生命的な絆によって結ばれていることが明らかにされるのです。イエス様は羊のためにいのちをかける「良い牧者」であり、「まことのぶどうの木」であるがゆえに「わたしたちを枝として良い実を結ぶ」ことが出来るのです。「わたしを信じるならば、わたしと同じことを行う」(ヨハネ14:12)のはイエス様がわたしたちの中に生きておられるからなのです。

 今日のわずか8節の福音朗読の中で、7回も繰り返されている「とどまる」ということばと6回も繰り返されている「実を結ぶ」ということばがとても大切です。「とどまる」(メノーという動詞)は、旧約聖書では、この世の物事や異教の神々が「とどまらない」のに対して、神とそのことばは永遠に「とどまる」という意味で使われています(詩篇117:2、イザヤ40:8)。新約聖書ではこのことばの用例が118回ありますが、ヨハネ福音書では40回、ヨハネの手紙では24回と合計すればその使用例の過半数となり、このことばにヨハネが特別な意味を込めていることは明らかです。

 洗礼の時、聖霊がイエス様にとどまったことを語るのはヨハネ福音書だけです。イエス様に最初に呼びかけた弟子たちのことばも「先生、あなたはどこにとどまっておられますか?」というものでした。イエス様が父の掟を守って、父の愛にとどまって(包まれて)常に生きているように、わたしたちもイエス様の愛に包まれて(とどまって)常に生きるのです(ヨハネ15:9~10)。そのためには試練もあります。イエス様に付いていても実を結ばない枝は切り払われるのです。実を結ぶ枝であっても、さらに良い実を結ぶために父によって刈り込まれる必要があるのです(ヨハネ15:2)。

【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちがイエス様につながっているため(とどまるため)に何をすればよいのでしょうか?

復活節第4主日 ヨハネ10:11~18  2018年4月22日

 毎年、復活節の第4主日にはヨハネ10章の「よき羊飼い」について語るキリストのことばが朗読されます。羊と牧者の姿は当時のイスラエルの人々には日常的な風景でした。私たちには考えられないほど、羊と牧者は親密な関係です。今でもベドウィンと呼ばれる遊牧民がパレスチナに住んでいますが、彼らは政府が与えたアパートに自分たちではなくもっとも大切なものである「羊」を入れ、自分たちは相変わらずテントで暮らすということをするほど羊をかわいがり、大切に思っているのです。

 羊は鹿のような速く走れる脚を持っていません。するどい牙やつめもなく、外敵から身を守ることもできません。また、自分たちで餌や水のあるところを探すこともできず、また群れから離れては生きてゆけません。また母羊と子羊が同じ群れの中で迷子になってしまうこともあるのです。このように無力でおろかな弱いシンボルのような動物ですが、この羊にたった一つだけ、長所があります。それは自分たちの「牧者」だけは間違えることがないことです。

 夜になると幾つもの群れが一緒の囲いの中に入ります。朝、牧者が一頭一頭の羊の名前を呼ぶと、それに応えて外に出てきます。どんなにその声をまねても自分の本当の牧者の声でなければ羊はやってきません。また牧者が先頭に立って歩くとそのままついてゆきます。牧者がよい餌場、水辺につれていってくれることを信じているのです。

 この羊と牧者の深い信頼と愛情あふれる関係を、イエス様は私たちとの関係として語ってくださるのです。私たちは自分の声を張り上げてしまうとイエス様の声が聞こえなくなってしまうのです。祈りで大切なことは、「自分の言いたいことやお願いを申し上げること」よりも「イエス様、語ってください、今日私たちにあなたが伝えたいことを」と「待つこと、聴くこと、心に響かせること」なのです。

 世の中の情報はかえって私たちをとまどわせ、時には誤った方向に進ませてしまうことさえあるのです。私たちの信仰の道においても簡単には答えは見つかりません。「苦しみながらも、今のところの精一杯の答え」であろうとも、イエス様ならば「どうお考えであろうか」という心でそれを探し求めるならば、きっと少しずつ、聞こえてくるでしょう、あのお方の声が。

【祈り・わかちあいのヒント】
*私たちがよい羊であるために必要なことはなんでしょうか?

復活節第3主日 ルカ24:35~48  2018年4月15日

 復活節の主日においては、4つの福音書のさまざまな復活についての記述が朗読されます。さて、今日はルカ福音書です。この箇所の直前には有名なエマオに向かう2人の弟子にイエス様が現れたあのエピソードが語られています。彼らが急ぎエルサレムにいる仲間の弟子たちのところに戻って、自分たちが体験した出来事を語っているその真ん中に再び、イエス様が現れたのです。

 復活したイエス様の出現の出来事を語る福音書を調べてみると、あることに気がつきます。イエス様の受難と死はイエス様の敵対者である人々、民衆もそれを体験していたのですが、復活したイエス様はイエス様を信じる人々にしか現れないのです。その理由についてはいろいろ考えられますが、マタイ福音書28:11~15に語られているように、信じようとしない人たちはいかなる理由をつけてでも復活を認めようとしないからです。

 イエス様を信じている弟子たちですら、最初はイエス様を見ても気がつかなかったり(エマオの弟子たち)、現れたイエス様を亡霊だと思っておびえてしまったりするのです。つまり、弟子たちの体は生きていたのですが心は墓に閉ざされていた状態だったのです。復活されたイエス様は、明るく平和と希望に満ちた光のように弟子たちの心の闇に差し込んできます。ようやく弟子たちはイエス様を喜びをもって受け入れます。

 復活されたイエス様は弟子たちに聖書のさまざまな箇所を用いて説明されます。これはルカ福音書における復活したイエス様が出現する時の特徴の一つです。そして今日の私たちにも同じことが呼びかけられているのです。すなわち、復活したイエス様に出会いたいならば、その手がかりとなるのは「聖書」のことばなのです。聖書はイエス様によって解き明かされるとき、単なる文字から「私たちを生かすみことば」となるのです。

 ルカは、福音書に続いて初代教会の活動の様子を「使徒行録」という書物にまとめました。その使徒行録においては、直接イエス様を見たことのない人々が洗礼により「弟子たち」と呼ばれています。弟子たちはイエス様の出来事の証人なのです。現代の私たちも私たちの信仰体験を通して、イエス様を証しするために呼ばれた弟子であり、証人なのです。

【祈り・わかちあいのヒント】
*聖書のことばが、文字からいのちのことばに変わるためには、何が必要でしょうか? 聴くこと・味わうこと・祈ること……