復活節の日曜日にはヨハネ福音書が朗読されますが、第5主日のテーマは、イエス様は「道であり、真理であり、命である」というあの最後の晩餐でのお話です。まもなく弟子たちと離れ、父のもとに行こうとなさるイエス様は、彼らに「心を騒がせてはならない」と語られます。弟子たちはイエス様の受難と死が間近に迫っていることすら悟っていないので、イエス様が何を語られているのかさえもよくわからないという雰囲気です。
トマスやフィリッポの質問はどこか的はずれな感じがしませんか? しかし、彼らの質問のおかげで、少しずつイエス様が「誰であるか、どのようなお方であるか」が見えてくるのです。「イエス様は道であるお方」です。
狭い門、けわしい道について、山上の垂訓(マタイ5章)において、述べておられます。道は生き方を示す言葉として、日本語では茶道、華道、書道、剣道といろいろな用例がありますので、わかりやすいと思います。つまり、キリスト教というかわりに「イエス道」ということもできるのです。すなわち、イエス様のように考え、イエス様のように行ない、イエス様のように愛することがイエス様という道を歩くことにつながるのです。
事実、キリスト者、キリスト教(元来は「キリストの仲間たち」という意味)という名前が誕生する前には、この教えは「この道に従う者たち」と呼ばれていました(使徒行録9:2)。ですから、道という言い方には、その道の上に立っているだけでなく、自分の足でその道を歩んで行こうとする主体性、努力、精進が必要なのです。洗礼さえ受ければ、エスカレーターに乗るように天国に行けるとはイエス様は言っておられません。むしろ、「わたしに従いたいのなら、日々、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われています。
そのことは、今日の福音の箇所にはっきり記されています。「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行ない、また、もっと大きな業を行なうようになる。わたしが父のもとに行くからである」(14:12)。これは、キリスト者全体、カトリック信者10億人が心を一つにして行なえば、確かに大きな業が実現することを意味します。「みなが一つとなるように」……これがキリストのわたしたちに対する望みです。
【祈り・わかちあいのヒント】
*わたしたちの今の歩みは「狭くて、けわしい」と感じる道でしょうか?
*今、「キリストの道」のどこを歩いているか、わかりますか?